ガンダムは人
ガンダムって人の話だよね
ガンダムと自分
いきなりガンダムの話をしてしまって大変申し訳ないですが、最近ガンダム熱が最熱していて、どうしても語りたい。
周りにガンダムを語れる人間がいないため、ここで放熱したい。
そもそも私がどれくらいガンダムを知っているかというところだが、一言でいうとスパーライト級のガンダムファンぐらいが妥当な気がする。
SEEDやOOだけ見てガンダムを語るほどのにわかではないと思いつつ、設定資料集読み漁るほど、どっぷり浸かっているわけでもない。
アニメ化されているものは大体一周はしたぐらいのレベル。
ハマっていたのは大体、小学生から中学生あたりで、高校・大学はガンダムコンテンツに触れていなかった。
しかし、最近ふと見返したUCで火が付き、押し入れからGジェネ ジェネシスをひっぱりだし、NTと閃光のハサウェイを視聴して完全に燃え上がっている。
この場で何を書きたいかというと、ある程度年齢を重ねてからガンダムを見た感想を伝えたい。
UCを見て
まず、UC単体を見たとき思ったのは、フルフロンタルの言っていること、正しくね?と思ってしまった。ガンダムシリーズはよく、子供(理想)と大人(現実)の構図が多い。UCもバナージやミネバが理想を語り、フルフロンタルが大人として、現実を盾に子供を諭そうとするシーンがある。
実際、ラプラスの箱の中身にある真実を全世界に伝え、あとは世界の人々に託すという結末は、ある種、真実を明らかにして人の可能性を信じるという意味で美しいと思う。ただ現実として、真実が明らかになったことによって、引き起こされる問題は多くの命を奪うだろうと思う。
ガンダムは、総じて人を信じすぎている気がする。人は最終的には分かり合えるということを前提に話が進んでいる気がしていて、なんとも違和感を覚える。
それは、私がニュータイプではないからかもしれないが、仮に人が他の人間の感情や魂とつながり、心と心が繋がったとして、それがイコール分かり合えるにはならない気がする。
結局のところ、気に食わないものは気に食わないし、相手の真意が分かることが必ずしも良い結果にはならないと思う。
ただ、それは肉体的な死があるから人は争う、よってすべての人間がニュータイプになり、肉体的な死後も意識が時間を超えた次元に存続するということを認識して、肉体的な死を恐れなくなれば、争いがなくなるという意味であれば理屈はわかる。
NTでは、死を超えるためにフェネクスを求めていたが、個人的には肉体的な死の恐怖だけが、人同士が分かりあえない理由でもない気がする。
結局のところ人の話
正史にもいろいろなサイドストーリーがあり、ガンダムという機体自体は、一年戦争時においても意外と多かった(後付けかもしれないが)。
いろいろな形でガンダムは登場し、各MS・パイロットごとに様々な物語があるが、個人的にはメインのストーリーとはやはり違うと感じる。
自分は、最初のガンダムから始まり、ZやZZ、逆シャア、UCなどを正史のメインストーリだと感じている。
では、自分の中でメインとサイドは何が違うのか考えてみる。
まず、ニュータイプが出ること
これは、そうであって、そうではないと考えてる。
確かに、ニュータイプは一つの重要な要素ではありつつ、物語の登場人物にニュータイプがいれば正史かというと、どうもしっくりこない。
ただ、自分がメインだと感じるものにニュータイプが必須であることも確かではある。
結論としては、ニュータイプという概念を使って、人類を描いているかが自分個人のメインとサイドを分ける基準なのだろうと思う。
ファーストからニュータイプの概念が登場し、ZやZZで人の思いというものが物理的な力を持ち、逆シャアでその力の発生がニュータイプのみのものではないと分かり、UCで意識や思いが時間を超えた別次元に存在することが分かった(というより個人的にそう理解した)。
戦争という人間同士の争いの中、人の思いや意識を入力・出力できるニュータイプという存在の謎を追うことで、人と人が分かり合えるのか、また分かりあえないのは何故か、分かり合うためには何をすべきかを問うていくのがメインストーリーのテーマではないかと感じている。
そのため、基本的には争いが描かれつつも、争いというもの悲惨さより、「人とは」が主題のように感じる
その点、アナザーの中でも、WやSEEDよりもOOの方が、ガンダムの主題に沿った作品のように思える。(良い悪いという話ではなく)
締め
ここまで色々適当に書きましたが、UC以降を改めて見て、今個人的に思ったことを書いただけなので、正確な情報は何一つありません。
なので、なんだこいつと思いながら読んでください。
また、何かこれは違うだったり、自分はこう考えているというのがあれば、コメントもらえると嬉しいです。
以上、お疲れ様でした。